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脳内世界地図ミクロ -楡井ズム増刊号-

 
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発狂する文学

24.4.30『夢みる子どもたち』

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 遠出しての折に、旅先の彼から電報が届く。

  イマ喫茶デ茶、読ム本ハ読ンダ、構想ニトリカカル、今度ノネタ、子ドモダヨ

 慢性的な堕落気症患者にとどまらないことではあるが、創作者にとってプロットの研鑽が何より楽しいと云う。執筆より遥かに永く時間を費やすこともあれば、ほんの小一時間で了する場合もある。専ら彼から作品の話を聞くときは、小説の体をなしておらず、プロットの状態がしばしで、だからこそこのような駄文を書き連ねることになったのだが、話がそれるので以上のことは語るまい。

 彼が執筆する際の視点は、おおよそ作者の仮面の裏側からであり、出来上がるものはたいてい幻視を用いた私小説であるような向きがある。いくつかの作品を読めば彼の脳内がありありと映し出され、俗に云う三思考:嗜好(イデアの限界因子)/志向(イデアの脱却因子)/施行(イデアの戒律因子)が分かるのだ。
 これまで彼の作品を読了してきて思うことは、彼には独特の、ある意味では実に身勝手な性の解釈があり、希釈もせずそのまま作品に昇華していることが多い。
 それを彼は、編纂と呼んだ。
 一作にひとつかふたつの論理、同量のカテゴリー。
 そんな頓知で他人に解せるだろうか。こう解釈できるだろう。彼は多肢に渡る性のファクターをそれぞれカテゴリー別に分け、そこに自身の作品を当て嵌めていくつもりなのだと。そうして一冊のアルバムができた暁に、彼はどうするつもりかまでは聞けない。どうせ、彼という大きなアルバムが外側にあって、単にそのものが収録されるだけだろうから。

 以上のことから、今度ノネタ子ドモダヨと聞いたからにはロリヰタ・コンプレックスを引いた話なのだろうと邪推していた。思えば彼の作品に該当するものはない。常々から彼の視線自体が子どものそれであり、胎内回帰やら少年の青き哲学やらを真髄として(云わば免罪符として)物語化しているものばかりであった。
 そんな彼が私的な事情で子を持つ親の気持ちになろうはずもなかろうし、旅土産の齎した結果にしては隙がない。ちょっくら風俗に寄ろうかと思ったが(というのは大袈裟な戯言だが)いつもの如き魔が差して、足を彼の待つ喫茶店へと向けた。


 愛と憎悪が衝突する狭間に、恐怖が産まれる。とすると悲鳴は産声に似ている。
 呼んだつもりもなかろうに待ち草臥れた腹癒せかもしれない。出迎えの挨拶は以上のようなものだった。
 珈琲は不味かった。彼は根っからの紅茶派なので、ロイヤルミルクティーのカップは干からびたようにからだ。新しいのと私の珈琲を一緒に頼んだら、店員が砂糖を忘れてきたらしく私は仄白いだけの無糖珈琲を飲んだ。喉がなめくじになって排水孔にへばりついた。

 大人になりたがらない子どもたちについて描くとする。
 ネグレクトという言葉があって、やはり子どもを描くならその被害者がいい。
 産まれてきてしまったという慟哭、「何故産まれてこなければならなかったのか」という問い。
 死とはこの目的を喪失させるための作用なのだと、語る。
 だからこそ思春期は赤ん坊が怖いのだ。畏怖。大人を否定する子どもだからこその論理。
 Aを否定することでAになる(であると思う)だが実はBにすぎない。つまりそれはSを否定することでMを肯定することになる。これらの論考はいじめられっ子の逃避能力に因む。
 いじめられっ子は己のなかの暴力性を主張しそれに圧迫を受け、更なる弱者を虐めるのさ。まさに咎人の論理だね。

 いじめられた経験があるのか、もしくはその逆とか、と訊くとミルクティーに馴染んだ歯を見せて笑った。俺の世界に苛めなんてものはなかったさ。女は犯される対象であり、孕む女神だ、薬草であり、蠱毒でもあった。男は寄生虫であり、異分子であって、壁の染み、なければよいがあっても気にすることはない。腹を貪られる音を何度か聞いたが、遠き面影の域だ。今ではね。腹を擦る仕草を見て、寄生虫に巣食われようもんなら天地を返して喚くような男だろうが、と心中で毒突く。
 ――私は、いじめられていると騙ったことがある。
 目を丸くする、彼。
 ――仕方がなかったんだ。どうしてもその日、通学することが億劫だった。
 それで、どうなった。
 ――どうもならないさ。狡休みだとからかわれただけだった。
 休んで何をするつもりだったのだ。
 ――何も。映画館とか図書館とか、いまでは思いつくが事程左様に何にも興味が湧かなかった。模索の途中だった。自慰は覚えたてだったけれど。
 それはいい。エンターテインメントだ。自慰は独創遊戯だ。莫迦みたいに手を叩いて笑う男が居る。
 初めての自慰の手応えを想起したわけではないものの厭なことを思い出し、おまけに珈琲は不味くて、私は帰ろうかと尻を上げた。
 私たちはどちらも子どもが何たるかを知っている。人はもれなく識って居る。なぜなら誰もが皆かつては自らが子どもだったからだ。子どもと呼ばれ、子どもと自称していた。だからこそ厭なことも思い出してくる。子ども時代の源泉には、掘り返したくないコールタール風の胆汁が詰まっており、時に甘酸っぱいと勘違いされる酸味が内臓からせり上ってくる。
 遊園地はどうだ。
 半分腰をあげたまま私は固まり、彼がもう何杯目かも分からぬミルクティーを飲み干すまで待機させられた。言葉のつづきを一緒に胃に収められそうで不安だったが、甘味を嗜んだ唇の奥で彼は、遊園地だよ、と繰り返した。

 幻想遊園地は生垣から覗こう。永久少女が絵を描き、それそっくりに公園の片隅に顔を出している。大きな芋虫がのしのしと歩き、彗星が降るよ。どちらも赤ん坊の具体化である。星々の衝突は受精とかけよう。絵画の手順が星の誕生、芋虫の孵化、走馬燈となって観覧車に貼りつく。俺たちは花火を眺めながら爆発する。生首が宙を浮く。そして無垢の象徴である遊園地から、この世界に産まれいでる。
 大人と子どもの二元化は、無垢と有垢の二元化とは異なるのだ。知っている。
 小学生にとっては高校生はすごく大人だ。とある日曜の早朝、町内会の清掃作業にジャージ姿の女子高生が来たとする。小学男子である俺は彼女に昂奮する。下世話な妄想癖ではなく原理的なものだ。彼女は俺のことには目もくれず、近所の幼稚園児の女の子と戯れる。その無邪気な姿に、大人然としていた彼女の佇みは弾ける。弾けた粒子が、研ぎ澄まされた流星になって俺に降り注ぐ。知っているか、それが慟哭を生むのだ。
 もしかしたら俺は彼女と結ばれるかもしれない。あるいは恥辱を仕向けるかもしれない。ほんとうは何の交錯もなく離れていくのだろう。ふた家族、近所付き合いがあるわけではなかったから。けれども箱型の物語のなかでは何があっても不思議ではないのだ。むしろ何かがなければ話は滞ってしまう。
 彼女との間に子どもを産み、俺はゴミ捨て場に棄てる。子どもを産まなかったら、戯れていたあの幼女を棄てたっていい。そうして子どもを手放す。すると少女は少女のままで、永久に少女であり続ける。育たないということは、何も受け継がないことだ。
 一瞬の弾けで、何かを伝承するのは自然災害だけでよい。2011年の大震災、2008年の異臭騒ぎ。
 伝承とは鎖である。鎖、とは枷であり、遺伝子である。俺たちは誰かの鎖子であり、俺たちの鎖子を誰かに預ける。鸛は黒鳥に喰われ、糞として《分娩》される。排泄という分娩は、快楽と虚無を産む。幸福と不安を産むただの分娩と比べれば、如何程に効率的だろう。
 ところが主人公と少女はその糞でさえも拾ってしまう。親からすれば攫うに値する。絆とやらを前にしては俺が拾ったんだから俺のものという守銭奴の論理はまるで意味を保たない。主人公は赤ん坊を畏れる。だから逃げようとするだろう。ところが少女は母性を受け継いでいるがため、そのままにする。孵化する際、芋虫は卵の殻を破っていくだろう、出産のとき膜を破るよりも遥かに力強き誕生であり、自ら破った殻のぎざぎざに傷つけられて、赤ん坊は傷痍の身で産まれる。あたかも世界中のネグレクト被害者が負う心傷を象っているかのように、絆といい遺伝子という、頑固な鎖に縛り付けられて赤ん坊はゴミ捨て場に産まれる。
 少年は大人になる。少女と赤ん坊を守るため、遊園地を訪れそこで生まれ変わる。
 Aを否定することでAになる。
 ≒大人を否定することで大人になる。ただし実は子ども。
 少年は遊園地を破壊し、生まれ変わる。
 論理は破綻し、否定された無垢が虚無となってこの世に排便される。世界中に拡散された記憶――遺伝子が持つ記憶という名の毒素が、大人であるという自覚を喪わせ、罹ったものを消極的にさせる。別の土地のものは毒素の息がかかったと目される彼らを軽蔑し、大人だとみなさない。そして、大人であるという自覚が、子どもを育てるという記憶に圧されてネグレクトを引き起こす。
 生まれ変わった少年、遊園地の無垢なる夢から醒めた彼だけは、傷つけられた子どもたち――鎖子の姿を知ることができる。
 それが俺で、俺はあのときの女子高生が、産んだ我が子――肌理の整った小奇麗な子どもだろう――を、充血した眼を剥かせて、滂沱と泣きながら縛り付ける光景を視る。
 そんな物語だよ。

 この土地には冬になると雪兎が現れる。種蒔き兎さ、山肌に現れる雪融けの痕。
 兎は多産の象徴だから、大自然の母性を司る。
 大地震は母の怒りってところだろう。充血した眼ってのは、きっと兎が取り憑いたに違いない。バニーガールはどことなく幼稚っぽい。それから銀色の毛並みを持つ奇妙な兎や、邦画にも似たようなものが……あちらは人魚姫と混ぜ合わせていて拙かったけれども。
 兎はそんなふうに思春期と取り合わせが良い。

 ――そう云えば私たちは互いに卯年生まれじゃないか。
 きみはたまにいいことを云うね。
 ――ところで遊園地に行くとかって話はどうなったんだい。
 何のことだろう。俺は端から拙作の話しかしていないのに。

 ――きみは、子どもの話を書くと云っただろう。けれども、話を聴いた限りそんな教育に悪い話は止した方が良い。身ぐるみ剥がされる。因幡の白兎のようにね。
 きみはほんとうにいいことに気がつく。是、だから鎖子は全身に生傷を帯びているのだ。
 ――なんでも兎につなげるのも止したまえ。理論武装に足元を掬われかねない。
 罠にかかるなら本望さ。
  ある日せっせと野良稼ぎ そこへ兎が飛んで出て ころり転げた 木の根っ子
 ――待ちぼうけはもうよろしい。何にしてもそんな血腥い話は結構だ。結局、ロリコンの話と何ら変わらないじゃないか。そんな概念で子どもの話を書くのなら、私はもうきみの話を愉しみにしないことにする。


 なぁに、アリスだってそんな概念から生まれでたのさ。 

 彼は柱時計を指さして、鈍行の発車時刻を教える。逃したら帰郷するのは明くる日だ。脳裡にそのことが過ぎって気を取られた。卓上の伝票を、意表を突かれた私の胸ポケットに仕舞いこむと彼は足音を鳴らして店を去ろうとしているのだった。
 ――アリス。不思議の国の……?
 そうさ、三月兎の物語だよ。
 彼の声が耳に触れて魂が抜かれたか、ゆらりと時計の針を眺むれば、十四時四十六分。
 足元が揺らいだ気がした。立ち眩みだった。


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